バレンシア(Valencia)の想い出
- 渡辺幸宏
- 2018年10月13日
- 読了時間: 3分
スペインで、マドリード、バルセロナに次ぐ第3の都市。それがバレンシア。
スペインの他の地域とは異なり、観光資源が乏しいせいか、意外と素通りされる街のようにも感じています。
今年4月、レコンキスタの調査研究の一環でバレンシアにも足を運び、一泊してみました。

現在ではスペインの主要な貿易港としての地位を確立し、我々には「バレンシアと言えばオレンジ」といったイメージが湧き上がる地方であるかも知れません。
札幌の円山に「エル・シッド」という名のスペイン料理のお店があったかと思います。スペインの母娘さんが料理を作っていて、とても美味しい店だった記憶があります。
この「エル・シッド」(El Cid)。本名は ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar )と言い、1045年頃にスペイン北方カスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県の県都 ・ブルゴス( Burgos )の北にあるビバール( Vivar )という小村に生まれたと、歴史では語られています。
レコンキスタ終了後、スペインの主要な国家となる「カスティーリャ王国」の誕生は1035年のことですので、王国誕生直後に生まれたと言ってもよいのでしょう。
エル・シッドは、その後サンチョ2世の親衛隊長となり、1094年、キリスト教国側で誰もできなかった「バレンシアの征服・統治」に成功するという偉業を成し遂げました。
イスラム側から見ると、1031年には、後ウマイア朝が滅び、セビリアを中心にタイファ群小国(20数国)による統制がなされ、「スペインのイスラム文化の黄金時代」とも言われた時期でもあります。
そうした中でのエル・シッドのバレンシアの征服・統治は、イスラムの民衆から非難されることもなく、実に友好的にバレンシアの統治を行っていたものと思われています。ちなみに、エル・シッドの愛馬「バビエカ」は頭が悪い馬と言われていますが、「ドン・キホーテ」に登場するロシナンテとともに、スペイン史上に名前を残す馬となり、ブルゴスの地にエル・シッドとともに銅像として残されています。
そんなエル・シッドの記憶や存在が、現在のバレンシアにどれだけ残されているのでしょうか。
実は、それ程多くの手がかりとなるものは、形としてはほとんど残されていません。
むしろ、前述のとおり彼の生誕地に近いブルゴスに銅像が残されていたりするのですが、スペイン全体における彼の存在感は、それ程大きなものではありません。
恐らく、その理由は、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世から追放されたという経緯が、未だに後を引き摺っているのかも知れません。
バレンシア地方でもワインは数多く作られていますが、私が宿泊したホテルでは、なぜか「 リベラ・デル・ドゥエロ(Ribera del Duero)」のワインを勧められました。まさにその地域は、エル・シッドの生まれ故郷を含むワインの一大生産地。
私は思わず、ウェイターさんに「これは、エル・シッドの形見か?」と聞いてみたところ、ニヤリと微笑んでみせてくれました。
そして、その翌朝、私の朝食用のテーブルの上には、再び「エル・シッドの形見」がさりげなく置かれていました。
スペインという国は、それぞれ個性ある歴史の上に成り立っている国であり、歴史文献では絶対に「語られない」歴史を知るためには、それぞれの土地に実際に足を運んで、実際に手がかりを見つけることが大切。
後日、アルハンブラ宮殿を案内してくれたスペイン人の知人が語ってくれた言葉が、まさにこうしたさりげない出来事から推察することができる「語られない」ストーリーなのだろう。
私のバレンシアでの想い出は、妙なところに尽くされておりました。


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